3月3日(水)
朝、雨戸を開けると、辺り一面ほやほやと白い。
霧なのか靄なのか霞なのか。そもそもこの三者はどこがどう違うのか。
首をひねりながらテレビをつけたら、お狐様のような顔の気象予報士が「それはですね」と人さし指を立てて言った。
「きりはひやひや、もやはもやもや、かすみはほやほや」
覚えましたか? はい、りぴーと、あふたー、みー。
寝起きの呆とした頭ゆえ、ついリピートしてしまい、
ひやひやもやもやほやほやと繰り返しながら湯を沸かし、梅こぶ茶を溶いて飲む。
霞を掻きわけ判子屋に行くと、作業場に見知らぬ男が座っていた。
ほっそりとした躰に瓜実顔、細い鼻筋、切れ長の目。
湯呑みを両手で包んだまま、薄い唇をわずかにゆるめ、うなずくように会釈をする。
なぜかは知らねど気圧されて、いらっしゃいませ、とかしこまり、深々と頭をさげてしまう。
机に向かい印刀を動かしつづける主の横で、鎮座したまま何も喋らず小一時間。
ちょいと次の家まで送ってくるよ、という主と共に客は店を出ていった。次の家?
客の静かな横顔が、どこかで会った誰かに似ていたようにも思うのだが、どこの誰だか分からない。
さげた湯呑みの底に、小さな丸い花びらが一枚、二枚。
ハーブティーでも煎れたのだろうか。
あの主が?
3月5日(木)
昼休み、古本市に行く。
ふた月に一度、駅前の古いビルにて開催される催しで、手頃な新古書ばかりの市である。
文庫本のワゴンの前に立ち、並ぶ背表紙を丹念に見る。
同じようにして物色する者が横並びに4人いて、誰もが無言で目を走らせている。
並ぶ躰が少しずつ前のめりになってきて、この気配は何かに似ている、と思ったら、
そうか、カルタ取りなのだった。
誰かがすっと手を出したとたん、その手をさっとはたきたくなって、むずむずする。
なぜか古雑誌の棚に林静一の「夢枕」を見つけ、喜び勇んでレジに向かう。
ひな鳥のような頭髪のおじさんが、本を見たとたん、あ? と小さな声をあげ、口をへの字にして訊いてくる。
こんな本、ありました?
思いもよらぬ問いかけに、うろたえながら、え、あ、はい、と小さく肯く。
あってはいけない本だったのか? 非売品、もしくは密売品とか?
困惑しつつ、裏表紙から値札をはがす手元を見ていると、
おじさんはへの字の口をそのままに、「よく見つけましたね」と、こそっと言った。
誉められたの?
3月7日(日)
久しぶりに空が晴れる。薄い青空に白い雲。
窓越しに見る景色はうららかなのに、出てみれば思いのほか風が冷たい。
これだから春は、油断がならない。
こいびとと共に江ノ電に乗り、鎌倉にて友人と会う。
ペコちゃんみたいな愛くるしい瞳の美人画家と、桃色鼻緒の下駄を粋に履いた仙人画伯。
もとは布団屋だったという大衆的中華料理屋にて昼酒を楽しみながら、夢について語り合う。
夢といっても、「大きくなったら宇宙飛行士になる」などという将来的希望観測ではなくて、眠りの中に現われる夢。
地上1mほどのところを、上昇も着地もできぬまま飛びつづけてじれじれとした、と美人画家は夢を嘆き、
仙人画伯は、桜並木を猛スピードで背面飛行(天に向かって仰向け)する夢を見たと破顔する。
平泳ぎでしか飛べないあたしは、まだまだ修行が足りないと反省する。
滅多に夢を見ないこいびとは、呵呵と笑ったり眉をよせたりと忙しい。
優越感(この中で自分だけがまともである)と敗北感(そんな変な夢を見たことがないのは自分だけ)が、
同時に押しよせ、混乱していたらしい。
鎌倉の美味なるもの(堅豆腐、ひろうす、アスパラ菜、絶品餃子)を買いこみ、黒ビールをお土産に頂いて、
暮れかけた若宮大路で、ではまた今度、と手を振り合う。
空はいつのまにか霞におおわれて、あるかなきかの夕焼けがぼんやり朧ににじんでいる。
江ノ電の車窓から見る海は波もなく、のっぺりとした薄茶色。
いつか大家さん宅でいただいた、海苔羊羹を思い出す。
3月9日(火)
夜。遠方の仕事より戻ったこいびとが、やってくるなり言う。
昨日の明け方、夢を見た。
夢の中、ぐっすり眠っているとふいに誰かに起こされて、「はい、避難訓練ですよ」と促され、
荷物をまとめ慌てて窓から逃げだすと、「はい、戻って寝てください」と呼び戻されて、布団に入る。
これを3度繰り返したところで目が覚めた、と。2度目からはあたしも参加していたらしい。
あなた達(美人画家と仙人画家とあたし)のおかしな夢が伝染したにちがいない。
苦笑するこいびとに同情しつつも、ひそかに胸を弾ませる。
とうとう彼も夢見族の仲間入り。
仕事帰りに魚屋で買った、「釜揚げ・桜えび」に大根おろしを添えて小鉢に盛ると、
こいびとが「忘れるところだった」と差しだしたのは、「いかなごのくぎ煮」。
薄桃色の桜えびも、飴色に炊かれたいかなごも、小さいながらもいっちょまえの姿かたちで、
並べた食卓は、まるでお雛様のお膳のよう。
そういえば、と、先日の判子屋の客を思い出す。
瓜実顔のどこか雅なあの客は、雛飾りのお内裏さまに似ていたような。
あの日はちょうど三月三日。湯呑みの底の花びらは、色鮮やかな桃の花。
急ごしらえの湯豆腐の土鍋から、霞のような湯気がたつ。
熱めにつけたとっくりの口からも、ほやほやと白い湯気が霞立つ。
せっかくいらしたお内裏さまに白酒でもお出しすればよかったか、と悔やみつつ、霞と共に燗酒を呑む。
湯気にかすむ茶の間でこいびとと向かい合い、桜えびといかなごを交互につまむ。
旨い、おいしい、ありがたい、と、小さき命をいただく春の宵。
2010,03,10, Wednesday






