裸言-LAGON-
パーソナリティー
柏木 妖
<<次の1件 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ... | 96 | 前の1件>>
「なんだって世の中には締め切りなんてものがあるんだろう」
 作者Aは恨めしそうに呟いた。締め切りは今夜の夜中の0時、それなのに筆が進まないのだ。
「いかん、こんな事では作家とは言えない、何とかアイディアを産み出さなければ」
 そんな事を言っている間にも時計の針は進んでいく。誰もそれを止める事は出来ない。作家Aは窓から外を眺めてみた。春の移り変わりの雨が音を立てて降っていて、それがとても強く悲しい音を奏でているので、今の気分にそぐわなかった。今考えているのはハッピーな物語だ。次に作者Aはコンピューターの前に座り天井を見上げてみた。白いペンキが塗られた天井板はいかにも無機質で、これまた気分に合わない。そこで作者Aは一服してみた。立ち上る煙はどこか女の体を思わせた。踊る女、これなら題材としてはおかしくない。これに賭けてみようかと作者Aは思った。踊る女とダンスホールのボーイとの恋。
「いけるぞ、これは」
 作者Aは突然キーボードを打ち出した。小説の始まりなんて案外こんなものである。窮すれば何にでも縋る、とにかく締め切りが問題なのだ。今、作者Aの頭の中では、二人がぶつかって出会うシーンが思い浮かんでいた。それをボーイが「失礼しました」と言うか「ごめんなさい」と言うかが問題で、この咄嗟の言葉にはボーイの人格が現れてしまう大切な台詞なのだ。そこに「申し訳ありません」が追加され、「うっ」が割り込んできた。こうなると最早どうしてもボーイの人格をここで作りきってしまわざるを得ない。どんな男だ、優男なのか、無骨者なのか、プレイボーイなのか、作者Aは必死で考える。(くそう、こんな事ならもっと高校生時代に遊んでおくべきだった、大体ダンスホールなんて俺は嫌いなんだ、あんなごみごみした場所)などと思いながらも必死である。結局「すいません、大丈夫ですか?」に決まった。素朴で普通のボーイに成り下がった。これから恋愛物の楽しい幕開けだと言うのに。(女はどう返事する?)作者Aは女の顔を想像してみた。魅力的な女性、恋に相応しい顔、それはどんなだったか。(うーん、大学時代にもっとナンパしておけばよかった、魅力的な女性ってどんなだっけかなあ)作者Aの悩みは尽きない。考えている内に締め切り1分前になった。もう何をどうしても間に合わない、とうとう締め切りを跨ぐ事になってしまった。
「あー、なんかこう、読んでてスピード感があって目まぐるしく展開する恋はないものか」
 作者Aの頭はもう爆発寸前である。今、締め切りを1分過ぎた。(えーい、面倒だ、行間の無い書き出しでもって連続して読ませるっていうのはどうだ)作者Aは何とか二人の出会いを書き終えた。あと少し、二人が瞬間の恋に落ちてその後どうなるの? という所迄書ければ今日はお仕舞い、なんとか担当者に送る事が出来る。はっとして落ちる恋。確かに作者Aにも身に覚えがある筈なのに、今出てこないのだ。締め切り5分過ぎ。ああ、こんなにも浅はかな人生を送ってきた作者A、今迄した恋も小説の表現にすら生かせないなんて。あのきゅーんと胸が絞られるような想い、全てが止まる瞬間、それを書きたいのに焦りばかりが頭を埋めていく。作者Aは自分を呪った。これが才能の壁なのか、それとも真面目でないのがいけないのか、とにかく書くしかない。一字ずつでいい、指よ進んでくれと思いながら作者Aは涙目になってきた。担当から電話はない。まるで遅れる事を予測していたように。締め切りを10分過ぎた。やっと男と女は落ちる。彼女のスカートがボーイの持つトレイから落ちたカクテルで濡れた後、スカートを押さえようとする彼女の手と、布巾を持ってそのスカートを拭こうとする彼の手が触れた瞬間、二人は目を合わせ、恋に落ち、作者Aの原稿は出来た。それは締め切り15分過ぎの事だった。

2010,03,05, Friday
TOP PAGE